■音楽の源流 祭礼にたどって■

 

作曲家・平野一郎

 

 祭りは「音楽」の源泉だ。国内の様々な祭礼の現場を訪れると、地域に古くから伝わる歌や囃子が儀式や演舞とともに息づいている。今も根強く受け継がれるその姿に、心洗われ、励まされる。

私のような作曲家にとってそれは、深く耳を澄ますべき旋律やリズム、音風景があることを意味する。

 私は15年前から、京都の丹後地方を起点に全国200カ所ほどの祭礼の現場を巡り、伝承される音楽を追跡してきた。

 

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 私の生まれは京都府宮津市。雪舟が天橋立を題材に墨絵の傑作を残し、与謝蕪村が数年間滞在して画業を磨いたと伝わる土地柄である。古い寺社の多い近隣一帯に祭礼は盛んで、子供のころから歌や囃子に親しんでいた。

 作曲を志したのは中学生の時。シューベルトのあるピアノ曲を聴いて、音の世界にこれほども現世から隔絶した孤独な境地があるのだと衝撃を受け、魂が歓びに震えた。祭囃子は骨身に沁みついていたが、当時は意識に上らなかった。むしろ無意識に避けていたのかも知れない。

 

 祭礼に改めて関心抱くのは、京都市立芸大で一通り西洋音楽を勉強し終わったころ。1996年の秋、宮津市郊外で伝統神事の「太刀振り」に遭遇した。丹後地方一帯で行われている神事だが、宮津城下の一端で育った私は見るのが初めて。襦袢に襷、タッツケ袴に白鉢巻の若者たちが、太鼓や篠笛の音に合わせ勇壮に太刀を振る。見ていると、何かが呼び覚まされるのを感じた。笛太鼓の奏でる音が、物心つく前から聴いていた囃子に酷似していたのだ。

 

 「祭礼のルーツはどこにあるのか」

 烈しく血が騒いだ。自らの音に繋がる確かな根を辿って、私は丹後の様々な祭礼の探訪を始めた。「太刀振り」は丹後だけでも数十カ所で行われている。列が途中で輪になったり、背中で押しあったり、神事を終わらせるために獅子が暴れたりと違いがある。関心が深まり、音の採取から研究へと踏み込んだ。

 

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 京都府伊根町の宇良(浦嶋)神社の夏祭りを初めて訪れたのは98年7月末。宮司の宮嶋淑久さんから5世紀の雄略天皇の時代にさかのぼる浦嶋子(浦島太郎)の伝説をうかがい、「太刀振り」についても練習段階から2年がかりで密着。さらに同地の春祭りで「戊亥の歌」という謎の歌に遭遇した。意味不明の歌詞に加え、歌の途中から別の声がもう一つの旋律をかぶせて来る。

 採取した録音から楽譜にするのが通常だが、この時だけは、私の志願に快く応えて下さった宮嶋さんと一緒に、口ずさみながら音を書き起こした。謎の言葉は、一説には古い朝鮮語、ともいう。しかしそれ以上に、秘密の意味を隠すかのように旋律が割り込んでくるところが興味深い。作曲家の心がうずき、伝説を描く絵巻のような楽曲の構想が閃いた。


 そして生まれたのが、2003年発表の弦楽四重奏曲「ウラノマレビト」。のたりのたりと春の波に揺られつつ、対比的な旋律が絡み合い、忘れられた物語が紡ぎ出されていく、そんな音楽。

 探求を続けるうち、祭礼とその底にある神話や伝説の持つ空気を、音楽ならば何よりも直に表現できる、という実感はいっそう強まっていった。

 

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 その後、福島の相馬野馬追、奈良の石上神宮、島根の出雲大社、大分の宇佐神宮など様々な土地の祭礼を歴訪。05年に東京フィルハーモニー交響楽団の演奏で「かぎろひの島」、10年には京都府八幡市委嘱の「八幡縁起」や芦屋交響楽団委嘱の「鱗宮交響曲」をお披露目するなど、踏査を基にした作曲活動は徐々に実を結んでいる。


 今年1月には、女声独唱と映像と室内管弦楽によるモノオペラ「邪宗門」が、07年に受賞した青山音楽賞の研修成果として、京都で初演された。北原白秋の同名の詩集による作曲に先立って、福岡県柳川市の沖端水天宮の舟囃子や長崎のおくんちなどを訪ね歩いた。江戸時代、“キリシタン”の人々は、弾圧により殉教や棄教で姿を隠し、マリアは観音に変わった。だが、キリシタンゆかりの地のとある行事を訪れると、十字を切る人、数珠を擦る人、柏手を打って拝む人、それぞれの祈りが混淆し、土着の信仰として今も生きている。


 音楽もまた万象を呑み込んでは、次なる器に魂を吹き込み、生命の声を繋いでいく。これからも各地の祭礼を探訪し、新たな領域を拓き、深めていきたい。

 

〜日本経済新聞 2011年(平成23)年10月7日朝刊(全国版)文化面に掲載